ねこまくらブログ

ねこまくらのしこうさくごを書き綴るブログです。

『嫌われる勇気』読書中です。

アドラー先生の(思想が元になっている)『嫌われる勇気』を読んでいる。

昔、半引きこもりの時に読んでも心に響かずに一度捨てた本だ。

 

社会人として働いているとそれだけ

妄想じゃない現実での問題が増える。

もっと精確にいうと

妄想と現実の比率がより現実の方にひっぱられる。

そういう時に読むと、現実の問題として『嫌われる勇気』の内容が入ってくる。

 

ちょうど、不幸自慢の部分に行き当たったから

自分の考えを書いていこうかと思う。

 

「不幸自慢」はね、するんだよね。

ことさら誰かにしてないつもりでも心の中でするんだよ。

特別であろうとするというのはなかなか根深い問題だ。

平均じゃあ自分に意味を見出せないわけだから

よりダメな存在か、より良い存在の2極しかないのよ。

 

現実的な観方は段階をもって

ダメーふつうー良い

と分かれてるイメージ。

特別でありたい人の選択肢は段階がなくて

ダメ ふつう 良い

に区切られてる。

特別でなければならないと思っている人は

ダメ 良い

の2択。

 

理不尽なこと(=不幸)にぶつかった人はね

その意味を求めてしまう。

どうしてこんなことになったんだろう・・・。

のどうして?の部分。

 

そんでこれは

事実を知りたいどうして?じゃなくて

行き場のない感情の行き先を求めるどうして?

なのね、すぐ頭の中でごっちゃになるけど。

そうすると理不尽なことに意味付けをしなければならなくなる。

 

私は劣等な人間だ。なぜならあの時の苦しみに意味はあるからだ。

私は劣等な人間だ。でなければ私が何故あのような目にあったか分からないからだ。

私は特別な人間である。なぜならあの時あのような目にあった私は人と違うからだ。

みたいなね。

(それかわたしは特別でありたい!って願望に不幸があとから

あてはまっちゃうみたいなこともあるかもね)

 

『嫌われる勇気』の哲人はこの章の最後に

『自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、

その人は永遠に不幸を必要とすることになる。』

と言っている。

 

鋭い言葉だ。

昔、アダルトチルドレン関連の書籍を読んでいたころを思い出す。

どうして?を掘って掘って掘っていっても

解決はしなかったから。

 

昨日は久しぶりにザ・シンプソンズを英語でみた。

結構楽しめた。英語をもっとうまくなりたいと思う。

そしたら

『それに意味あるのか?』『どうせ中途半端にしかならないぞ』

みたいな心の声が自然と湧き上がっている。

たぶん

誰か英語ができる人をみたら

『わたしはやはり劣っているんだ』

自分よりできない人をみたら

『わたしのほうができる。能力あるなぁ』

みたいに勝手に反応するんだと思う。

 

頭でひねりだされた意味よりも

最初に自分の内に感じたものを大事にしたい。

 

・・・

真面目な事書きすぎた。

でも、自分理論は大切だとこの頃つくづく思う。

きちんと読むことはそれはそれで大事だろうけど正確さなんて後からでいい。

読み違えたとしても

今回みたいに、あの時は分かってなかったなぁって思えることも面白いし、

変わっていく、成長している自分を実感できる。

それこそ自分の感じ方を大切にして本を血肉にしていきたい。